なんでそんなに本を読むのか?端的に言えば「今のままの自分じゃダメな時期」が来たからだと考えています。そういうのが来る度に本の虫になる。
ゲームのお仕事を約15年。自分の会社も作った、専門学校の講師もやっている、本を2冊書いた。ゲームクリエイター志望者向けのイベント主催、ゲームイベントのスタッフ、弟子をとったりもした。
周りから見れば「すごいね」「頑張ってるね」となるかもしれない。だけれど当の本人にしたら、たまたま目の前にそういうことが起きたり、ふいに思いついたりして、「面白そうだからやってみるか。」と思っただけだったりする。単純に毎日が楽しいほうが良いに決まっているので。
それぞれに学びはたくさんあるし、今でも煮詰めるところは多分にあったりもする。とは言え何をするにも1回目のような新鮮さはないし、変に熟れてしまおうものなら「手癖」でやってしまうところが僕にはある。成長したという観点からは本来喜ぶべき部分もあるのかもしれない。とは言え僕の本心が「それじゃ全然面白くないでしょ。」と言ってくるので、そうなると嫌でも「次の新しいこと」を探さないといけない。平たく言えば飽き性。
で、そういう時に「自分のできること」「自分の知ってること」の範囲で物探しをしてしまうと、大体「一度来た道」に辿り着いてしまう。だって、自分の世界がその分の大きさしか無いのだから当たり前。それでは意味が無い。だからこそ「自分の知らないことを知っている人たち」から少しだけヒントをもらって、次の自分が行きたい場所を見つけるようにする。そのために本を読んでいる。
最近僕は色々な人と携わる機会がある。そんな中で1つ、似たようなことを言っている。
「とりあえず今の自分に無い物を1つ手に入れろ」
「それを覚えたらすぐに捨てて、次の1つを手に入れろ」
「自分というOSのバージョンアップを常に怠るな」
「考えるだけで行動出来ない奴は、何も考えていないのと同じだ」
自分としては仕事をする上でも生きる上でも大切だと思ってはいるものの、僕の表現の拙さもあってか、正直なところなかなか伝わっていないように見える。
僕の生徒にしてもそう、弟子にしてもそう、講座を受講してくれる人もそう。一緒に仕事をする仲間の中にすらそういう人がいる。とは言え僕の仕事のうちの一つに「伝える」がある以上は、こっちが先に折れるわけにはいかない。伝わらない理由を自分なりに考えてみる。
特に仕事においては、大体以下の2つに別れる。
1・自分が可愛いから
2・本気じゃないから
1つ目、何か僕が技術や知識や目線について伝えた時、本人は一見理解したような態度を示す。でもしばらくして様子を見ると、何も変わっていない。前と同じことを延々とやっている。それを指摘しようもんなら「でもこれが」「分かってはいるけど」「分かりました」と返してくるのだけれど、どの言葉の裏にも「僕はそのやり方が好きではない、得意ではないので、僕のやり方でやらせてください。」と書いてある。それじゃなんで僕に教えを請うのか?
大体にして君のやり方じゃダメだから、そして本人もその自覚があったからわざわざ僕に訊いてきたのじゃないか?と。無論僕の考え方ややり方が全てに対して必ず最適解になるとは言わない。とは言え今の君のやり方で正解に辿り着くことは無いと分かっている以上は、単に楽して答えを得ようという浅はかな考えだったのではと言わざるを得ない。
僕には弟子が3人いる。
1人は「言わなくても勝手に突っ走ってくやつ」、もう1人は「言ったことの必要不必要を自分の尺度で勝手に決めてしまうやつ」そしてもう1人は「言ってもすぐに忘れてまた勝手に自分の手癖に戻るやつ」
シンプルにどいつもこいつも全然教えがいが無い。「教える」という考えかた自体が驕っている気もするけれど、少なくとも僕の持ってる知識や技術は全部、いつでもいくらでも無料で持っていけというのがスタンスなのにも関わらず、誰も取りに来ない。素直に言えば第一期の3人は、全員弟子と呼べるほどでは無いと思う。いつか僕を超える気が全然しないからだ。
そのうちの1人は「いつか大久保さんが一緒に仕事をしたいと思ってもらえるように頑張ります」と言ってくれた。言葉としては素直に嬉しいんだけど、その時には僕が更にもっと向こう側に行っているから、厳しいことを言うようだけど恐らくそれは実現しないと思う。
まだ3人とも若いというのもあるし、僕が伝える側として不足していることがあるにしろ、本質的には「自分が可愛いから、他人の言葉など受け入れる気が無い」と思えてしまう。そういったことが弟子に限らず、生徒にしても仲間にしてもよく起きる。
自分が可愛いと思ってるうちは絶対に成長なんかしない。だって成長ってのは「昨日の自分を否定すること」なのだから。自己肯定、自己愛が強い人間は成長しない。
もう1つ目の「本気じゃないから」。むしろ個人的にはこっちのほうがたちが悪い。ゲームの仕事は傍から見れば華やかに見えるかもしれない。でもそんなものは全体のごく一部で、地味で楽しくもないことが殆どだ。そういった「つまらないけれど大切なこと」が積み重なるからこそ、最終的にユーザーが触れる「面白いゲーム」になる。
それなのに華やかな仕事だと勘違いをしている人が「外」にいるのはまだ分かる。だって箱の中身を知らないのだから。これが「中」にいるとなると、場合によっては目も当てられないし、ともすれば阻害要因にすらなり得る。
本気じゃないとはどういうことか。
・昔からゲームが好きだから、面白そうと思った
・物を作るのが好きだから、自分に向いていると思った
・専門学校で学んでいるから、ゲーム業界に入れる
・最近のゲームは面白くない、自分のほうが面白いゲームが考えられる
・ゲームに育てられたので、自分もゲームクリエイターになって感動を届けたい
素直に言えば若い頃の自分にも、少なからずそういった感情はあった。ただ、今の自分からすればどれ一つとっても「本気」とは言い難い。と言うよりも、その程度の気持ちで半ばゲーム業界に紛れ込もうものなら、ただ苦しむか、果てに逃げるぐらいしか道は無いと思っている。実際にそういった人間を今まで何人も何人も見てきた。
ゲームが好きならずっとプレイヤーでいればいい。物を作るのが好きならわざわざ仕事になんかせず、趣味でやればいい。専門学校の講師は誰一人として君の就職を保証なんかしてくれない、学費を収めてくれさえすれば優良顧客なのだから。最近のゲームが面白くないなら他の趣味を探せばいい。ゲームに育てられたと思うのなら、今後もお金を払ってゲーム業界に恩返ししてくれればいい。
一見ぜんぶ素直な動機に見えて「ゲームで本気で飯を食う」という観点で見れば、全然ずれていることに早く気付くべきだと。
冒頭のたくさん本を読んでいる~の中で、人生の先輩方は僕と同じことを言っている。アニメが好きでアニメーターになるな。声優が好きで声優になるな。映画が好きで監督になろうとするな。漫画が好きで漫画家になるな。頭のいい奴は、その言葉をすぐに理解出来るはずだ。僕から言わせてもらえば、ゲームが好きでゲームクリエイターにはならないほうがいい。というか、ならないでほしい。
本気ってのはとりわけ、気狂いするほどしつこくないと出来ない。そのためには食べたくないものも食べる根性が無いと出来ない。必要なら相手とケンカもしなければいけない。周りにどう言われようが「それで生きていく」っていう覚悟が無いと出来ない。昨日の自分を常に否定し続けないといけない。そのためには自分が可愛いだなんてくだらない感情はサッサと捨てないといけない。
そういうことが出来てようやく、足りてるか足りてないかの世界なんだと思う。
僕が今までゲームのお仕事をしてきて、何千人って人と携わってきた。でも僕の目線でそういった「本気の人」は多分、手足の指で数えるぐらいしか、まだ出逢えていない。
最後に矛盾するようなことを言うけれど、僕だって次の世代に道や場所を用意してあげたいという気持ちは常にある。だけれど、今後もその椅子を「本気の奴」意外に渡す気は1ミリも無い。そんなことをしたら、それこそ世の中につまらないゲームしか出なくなってしまう。
この双子と夏祭りで恋の射的がしたい。